梟の朝

西木正明。『梟の朝』(文藝春秋,1995年刊)読了。
第二次世界大戦中の諜報戦における日本軍人の死の謎をえがいたもの。小説の形式をとっているが,実在の人物が実名で登場し,基本的な要素については事実に基づいていると思われる。
冒頭近くで,母校での先輩政治家の講演の記憶という形で「大東亜戦争の間,わたしはあらゆる手段を用いて,連合国側の情報を収集しました。その中には,アメリカの原爆開発の情報も含まれておったのです。今となってはせんもないことだが,わたしの情報をきちんと活用してくれていたら,広島,そして長崎のあの惨劇は,防ぐことが出来たのではないかと思う」という言葉が置かれ,読了するとこの言葉が作品にとってきわめて重要なテーマを示していたことに気づかされる。

西安事件を機に国民党と共産党が接近することの意味に,政権の要路にあるものの多くが認識不足であったり,大艦巨砲主義が時代遅れになりつつあるとの主張が受けいれられなかったりというエピソードもさりげなく示され,権力中枢が情報を活用する能力を持たないことを認識しつつ,それでも目の前にある諜報戦を全力で戦わなければならない現場の苦闘と,歴史の大きな流れの中で,自らの人生を捧げざるを得なかった人々の悲哀が胸を打つ。

ただ,戦争という極限状況でなくても,組織の中で生きざるを得ない者は,似たような状況に日々直面しているのではないかとも思った。特に昨今の不況下においては。
だから,語り手が全共闘世代のフリーのジャーナリストに設定され,全ての謎が明らかになった時,その相棒の雑誌編集長が「戦争というのは,すごいな(中略)不謹慎かも知れないが,こんなことを思ってしまったよ。いっしょにして悪いが,俺やお前の人生なんて,人生じゃない。いわば人生ごっこだ」と語り,「そんなところだろうな,以後,挫折という言葉は禁句にしようぜ」と受ける,その場面に少々引っ掛かった。

全共闘世代は,基本的には日本社会全体が右肩上がりだった時代を生きた人々だ。その苦闘や挫折には十分敬意を払いたいと思うが,より良い明日を無意識にせよ前提としていたからこそ「人生ごっこだ」という感想が出てくるのではないか。けれど,この10年間で日本の平均世帯所得はほぼ100万円下がった。グローバリゼーションの時代を経て,世界全体が新たな混迷の時代へと向かいそうな気配も漂っている今,われわれの人生だって,かなり切実なものになっている。その分,戦時下を生きた作中人物たちへの共感があり,上記の場面への違和感を感じたのだろう。