赤い竪琴とすべて真夜中

文藝ラジー賞参加企画
群像9月号
川上未映子「すべて真夜中の恋人たち」(以下「すべて真夜中」と略。)

 津原泰水『赤い竪琴』が下敷きになっています。間違いありません。
『赤い竪琴』も「すべて真夜中」も、出版業界に属する30代半ばの女性が、独立してフリーとなり、そして心を病み、今更のように職人肌の男性に恋をし、男性側の事情で恋は実らないが、恋をすることで心の不調からは脱する話、と読むことができます。
主人公の女性の基本設定が類似しているうえに、人物の配置も似通っています。『赤い竪琴』における、主人公が恋をする楽器職人寒川耿介が「すべて真夜中」では高校物理教師三束。『赤い竪琴』で主人公のかつての恋人で独立時のパトロン百目鬼学が、「すべて真夜中」では、独立時に仕事を回してくれる親友の女性石川聖、『赤い竪琴』でかつての従業員で今は専業主婦で久しぶりに会う女性村主瑞枝が、「すべて真夜中」ではかつての高校の同級生で今は専業主婦をしている早川典子。
 何より主人公の名前です。

 『赤い竪琴』は入栄暁子。
 「全て真夜中」は入江冬子。

 暁子は本来「さとるこ」と読みます。しかし、その読みはかなり後にならないと作中に出てこないので、最初は「あきこ」と誤読してしまう。姓は同じ「いりえ」。名は「あきこ」に対し「ふゆこ」。季節違いです。気がついた時は流石に驚きました。

 にもかかわらず、『赤い竪琴』と「すべて真夜中」は似ていない。そして『赤い竪琴』の方が、圧倒的に優れている。さらに言うと、『赤い竪琴』が「すべて真夜中」より優れている理由の多くは、両作品が「似ていない」部分にある。
 以下論じていきます。

①構成が似ていない。
「すべて真夜中」は、出版業界に属する30代半ばの女性が、独立してフリーとなり、そして心を病み、今更のように職人肌の男性に恋をし、男性側の事情で恋は実らないが、恋をすることで心の不調からは脱する話で、それ以上でもそれ以下でもありませんが、『赤い竪琴』は、それだけの話ではありません。寒川耿介の祖父で、船乗り兼詩人であった寒川玄児を描くことで戦前の一時代を活写する架空伝記ともなっています。また、「すべて真夜中」の物語が、一度高校時代の回想が入るものの、ほぼ時間順に進行していくのに対し、「赤い竪琴」は、主人公二人が出会う緊張感に満ちた場面から始まり、現在と過去の二つの恋の物語を絡ませていきます。単行本出版時の小川洋子の帯「赤い竪琴が奏でるのは死者たちの言葉。その響きは、臆病な生者たちを、二度とは引き返せない愛の世界へ導く。」が語るように。
 「すべて真夜中」は、『赤い竪琴』のうち、現在のパートの基本設定だけを引用しアレンジを加えた作品といっていいでしょう。また『センセイの鞄』の大ヒットを意識してと思われますが、主人公の恋の相手を58歳とした。だから、印象としては『赤い竪琴』より『センセイの鞄』に近い。『赤い竪琴』の複雑な物語構造と精緻な構成に対し、「すべて真夜中」の単純な物語と貧弱な構成の相違が、両者を決定的に違う作品としています。

②作品を支える細部のリアリティが似ていない。
『赤い竪琴』では、戦前の詩人寒川玄児の雑記帳からの引用がそのまま掲載されます。当然ながら全て旧かな。もちろん、ポオの詩作を下敷きに時流から背を向けて書かれたとされる端正な定型詩も、津原泰水の手によるもの。後に『琉璃玉の耳輪』をモノする小説家の時代考証は、執拗なまでに厳密です。
 対して、「すべて真夜中」。小出版社に「校閲」専門の社員がいるという設定からして噴飯ものですが、私が目を疑ったのは以下の記述。
「勉強がとくにできるわけでもできないわけでもない生徒が集まる、これといった特徴のない平均的な公立高校に通っていた。」「わたしはたいして勉強をしなくても入れる東京の私立大学を受験して入学した。」主人公は、大学を卒業後「誰も名前をきいたこともないような小さな出版社」に入社する。あり得ない。いったいどれだけの数の「名門」大学の学生が、どんな小さな出版社でもいいからと入社を希望し、叶えられないでいることか。
「クラブの顧問を担当していた時期は登校していましたが、それも数年前に辞めたので、それからは生徒とおなじように全部が夏休みですね」あり得ない。学校の教員が現在どれほど忙しい仕事か。夏休み中にだって、各種研修、出張、書類の作成、文化祭体育祭など2学期の行事の準備、受験生の補講など仕事は山ほどある。ちょっと本当に勘弁して欲しい。

③テーマの深度が違う。
『赤い竪琴』のラストは、ハッピーエンドにもバッドエンドにも読めます。バットエンドと解釈したとき、運命の苛烈さは読者を震撼させる。また、主人公が仕事と葛藤し、挫折し、病む過程も説得力を持って描かれている。
 対して「すべて真夜中」が提供するのは、安易でチープなカタルシスです。「すべて真夜中」では、主人公は誠実なだけが取り柄で才能らしい才能を持たない人物として描かれます。私はここに、都会で暮らす30代独身女性をメインターゲットの読者に、いかに彼女たちに夢と救いを提供するかという、マーケティングの視点を感じました。
 才能がありすぎても、美しすぎても、ターゲットの女性の反発を買う。田舎暮らしの専業主婦も論外。だから、才能がありすぎて美しすぎる女性を、「石川聖」に、田舎で暮らす専業主婦を早川典子に割り当てる。主人公は、才能は無くて孤独だけど仕事には誠実な女性。多数派の読者を主人公に共感させておいて、ラスト近く、久しぶりにあう設定の典子には「もうわたしの人生の登場人物じゃないから」と言わせて、自分たちは田舎の専業主婦のようなつまらない人間ではないぞと安心させ、恋に一歩を踏み出してそれまでの自分の殻を破ったところで、俗流フェミニストの権化のような聖と、「お互いに本音をぶつけて泣き合った上での和解」という、ありがちなシーンを用意して、有能な人にも必要とされる特別な存在となった私を印象づける。恋は成就しなかったけれど、彼も私を好きだった。恋が成就しなかったのは、彼が「ひとつだけ、とても大事なことで、わたしは冬子さんに嘘をついていた」(初期に結婚はしていないと言っているので、そのことと思われる)ためであり、自分に魅力がなかったからではない。彼が残してくれた言葉を抱きしめて、これからもわたしは生きていくことができる。
 ここで発せられているメッセージは、平凡で才能のないあなたでも、誠実に仕事をしていれば有能な人も必要としてくます。人生を充実させるために、素敵な恋をしてみませんか。だと、私は読みました。

結論です。「すべて真夜中の恋人たち」は、志の低い、読者をとてもバカにした作品であった。
群像9月号、「すべて真夜中の恋人たち」と「来たれ、野球部」で半分以上を占めます。文芸誌に、本当に必要な作品ですか。

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